(取材日=2011年7月6日)
相棒とともにこれまで積み上げてきたことをすべて出し切った宝塚記念。
アーネストリーも強かったが、佐藤哲三にとっても、
年に一度できるかできないかの最高の騎乗だった。
“レースまでの緻密な組み立て”、そして“ここぞというときの勝負強さ”を持つ
職人・佐藤哲三というジョッキーは、
いったいどのようにして、今のスタイルに辿り着いたのだろうか。
そもそもジョッキーを目指したきっかけは何だったのか。
競馬学校の試験を受けたきっかけは、
実は競艇選手になりたかったからなんです。
僕のころは競艇学校の受験資格が18~22歳で、
競馬学校は中学3年のときに受けられたんですね。
で、競艇の試験のときに役に立つからと親父に言われて、
じゃあ、試しに受けてみようと。
佐藤は知る人ぞ知る競艇好きである。
競艇選手に憧れたのは、
父親に競艇場に連れて行かれたことがきっかけだったという。
さらに、当時の佐藤は野球部に所属しており、日々練習に明け暮れていた。
当然、頭の中は野球と競艇のことでいっぱいで、
馬に触ったこともなければ、見たこともなく、
競馬にはまったく興味がなかった。
(競馬学校の)一次試験を受かったくらいかなぁ。
確か金杯の日だったと思うんですが、
親父が競馬場に連れていってくれたんです。
でも、まったくレースを観なかったんですよ。
『寒いのに、こんなおもしろくないところに連れて来られて・・・』
くらいにしか思ってなくて。
今思えば、何を観ていたんでしょうね(笑)
父親自身も、大の競馬好きではなかったと佐藤は語っている。
ただ、競艇好きの父親は、ジョッキーという職業に、
競艇選手と同じくらいの魅力があると感じたのではないだろうか。
だからこそ、哲三少年を競馬場に連れて行ったのだろう。
その父親の想いが通じたのか、哲三少年も二次試験を受けるころには、
“これしかない!"と競馬で食べていく決心を固めていた。
そして1986年の春、哲三少年は騎手課程5期生として競馬学校に入学する。
「正直、最初は『とんでもないところにきてしもた…』と思いました。
厳しいし、
馬に乗るのも怖くて怖くて。
“帰ろうか"という思いも一瞬よぎったんですが、
“いや、ちょっと待て"と。
『俺みたいな体が小さいヤツが一浪して高校に入ったら、
いじめられるかもしれん。それだけは絶対に嫌や!』と思って、
踏みとどまったんです。
あと僕の同期には乗馬経験のなかったのもよかったのかな。
同期の中では(田中)勝春が小さいころから牧場で乗っていたのと、
(小野)次郎がトレセンの子だったくらい。
角田(晃一)も馬を触ったことがないって言っていたし、
もし経験者ばかりだったら、もっと落ち込んでいたかもしれないですね。
あのころは、勝春や先輩の乗り方を観察したり、
調教を工夫したり、とにかく必死でした。
入ったからには絶対にジョッキーになってやると思っていたし、
もうやるしかないという気持ちだけでした。
競馬に興味があったわけではなく、乗馬経験もなかった佐藤にとって、
競馬学校の生活は苦痛以外の何ものでもなかった。
もう一度、競艇選手になる夢を追いかける選択肢もあったかもしれない。
しかし、“負けたくない、これしかないんだ!"という、
人一倍負けず嫌いな性格が、最後までやり通させた。
入学してから3年後の1989年、佐藤は騎手免許を取得。
同年3月4日、中京4R・3歳未勝利で初騎乗し、騎手人生をスタートさせた。
デビュー当時はもう
“勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい"、
それしか考えていませんでしたね。
しかし、1年目は8勝。思っていた以上に、
競馬の世界が厳しいことを痛感させられた年だった。
どうしたら勝てるのか。
そればかりを考える日々を送り、ある結論に至った。
そのおかげで、2年目は27勝と飛躍的に成績が伸びた。
僕はずっとローカルでの騎乗だったんですが、当時のローカル競馬は、
どの競馬場も馬と騎手が滞在していたんです。
当然、レースで乗る馬は自分で調教します。
競馬学校にいたころから調教に対する工夫はしていたので、
『自分に合った馬を造って競馬を使ったら勝てるんじゃないか』
と思ったんです。
とはいえ、そう簡単に攻め馬を任せる陣営はいない。
そこで佐藤は朝、絶対に出遅れないようにし、
調教に乗せてもらえるように自分をアピールした。
その競馬に対する姿勢が認められ、
夏の小倉では多いときで24~25頭の調教をこなしていたという。
まぁ、3キロ減というのもあったとは思いますけど、
たくさんの馬を任せていただいたので、
おかげさまで勝ち星は増えました。
調教して勝ったら、
『楽しいなぁ。朝しんどいけど、またがんばろう』。
そして、また結果が出たら、
『楽しいなぁ。よし、次もがんばろう』って。
あのころに馬を造っていく楽しさを知ったのかもしれないですね。
3年目には、レットイットビーに騎乗した朝日チャレンジCで、
うれしい重賞初制覇。
勝ち星も少しずつ増えていき、
競馬の楽しさをますます感じるようになった。
しかし、それと同時に慢心も見え隠れするようになっていた。
その矢先にある事故が起きる。
デビュー5年目のころに、
前田オーナーが所有していたブロンドビーナスという
すごく走る馬がいたんです。
そのころの僕はとにかく勝ちたい一心で、競馬をしていたので、
その馬に乗ってレースをしているときに、
少しだけ開いているスペースに突っ込んでいったんです。
そうしたら挟まれて、馬がひっくり返ってしまった。
結局、ブロンドビーナスは予後不良になってしまって…。
完全に僕のミスでした。
でも、そのとき、誰も僕を責めなかったんです。
それが余計に申し訳ないと思ったし、
勝つだけではダメなんだということに気づかされました。
馬に最初に教わったことだった。
それ以前は勝つためだけに攻め馬や
レース展開などを組み立てていたが、
その後は勝つだけでなく、
馬を無事にゴールさせることも心がけるようになった。
“自分の技術と感覚を磨けば、
わざわざ狭いスペースに入っていかなくても勝てる"、
今でも佐藤はそう考えながら、勝てる方法を探っている。
そして事故が起きた1年後の1995年、
佐藤は所属していた吉岡厩舎を離れ、フリーになる。
勝ち星はさらに増えましたけど、
あのころも、まだ甘ちゃんでしたね。
“トレーニングをしていれば馬を動かせるはずだ、
接戦で負けないはずだ"と、
自分の体を鍛えていれば結果はついてくると思っていましたから。
実際、そのモチベーションでGI(96年朝日杯3歳S)を勝てたし、
後悔はないです。
ただ、もう少し周りを見ることも
できたんじゃないかなと思いますね。
いらんプライドだけは高かった(笑)。
人と衝突することもしょっちゅうあったし、
当時を振り返ると、負けず嫌いだけでよくやってたなぁって。
プロである以上、そういったプライドは、ある意味なくてはいけない。
ただ、その出し方に問題がありましたよね。
本当にいろいろな方々に迷惑をかけました。
信念を持って仕事をすることは決して悪いことではない。
しかし、時にそれが人に迷惑をかけ、
自分を傷つけることもある。
そのことを佐藤に気づかせ、
正しい方向に導いてくれたのがラガーレグルスや、
タップダンスシチーなどのかつての相棒たちであった。
彼らのお話は、次回の第3話にて。
(第3回へ続く)