「こんなジョッキーだけど、色々な経験をさせてもらい、
以前より少しは成長できたと思います」
同調し、"こんなジョッキーだけどな"と笑うと、「おいっ!」と発した後、続けた。
「自分で言うのは良いけど人には言われたくない」
笑いながらではあるが、
こんなやりとりにも彼のプライドの高さを窺い知ることが出来る。
"プライドが高い"というと一見、聞こえは良くないかもしれない。
しかし、それは決してネガティヴな意味ではない。
人が人として自分の生業にプライドを持つことでその道を達観できるように、
ジョッキーがジョッキーとして成功しようと思えば、
自分の仕事にプライドを持つことは大切だ。
言葉の主は池添謙一。1月5日の昼過ぎ、世界一高いビルの麓で会った時の話である。
携帯電話に内蔵されているカメラでバルジュハリファを撮影する池添は、
どこにでもいる日本の青年にみえた。
しかし、一泊四日、実質2日にも満たないドバイへの遠征で、
彼はまた一つステップを上がったのではないだろうか……。
現地で丸々一緒に過ごした三十数時間を振り返りつつ、
池添が語ったこれまで、昨年、そしてこれからを紹介していきたい。
降り注ぐ陽光を浴びて828メートルの尖塔が光る。
目の前にはこれも世界最大と言われる噴水・ドバイフォウンテンが
音楽に合わせて威勢よく水を噴き出している。
そんな光景に目をやり、
運ばれてきた食事に手を伸ばしながら池添と冒頭で紹介した会話をした。
元騎手であり現調教師の池添兼雄の長男として、
79年7月に生を受けた。幼い頃から武豊に憧れて育った。
98年に騎手免許を取得するといきなり38勝。
JRA最多勝利新人騎手賞を獲得した。
01年の夏のことである。
私が、武豊の常宿としているフランスのホテルを訪ねドアをノックすると、
顔を出したのは池添だった。
憧れの武豊を追いかけ、「自分の知らない競馬で刺激を受けたい」と
21歳の若者はフランス・ドーヴィルに赴いたのだ。
普段とは違う世界に身を置けば神経を遣うことのマイナス面は大きい。
競馬ともなれば尚更だ。
しかし、その分、五感は硬くとがる。吸収力が何倍にもなるのだ。
そして、最初はマイナス面と思えた神経の浪費は、
いずれ慣れることによってマイナスではなくなる。
だから成長を促すには海外への遠征ほど手っ取り早いものはないのだ。
フランスに滞在した池添は実戦にも騎乗した。
残念ながら勝ち鞍を挙げることは出来なかったが、その成果は早速現れる。
フランスで過ごした約半年後、02年の桜花賞をアローキャリーで勝利。
自身初のGⅠ制覇を達成すると、その後は毎年のように大仕事を成し遂げる騎手となる。
そんな中、デュランダルやスイープトウショウといった
個性の強い馬との勝利に目を見張った男がいた。
「池江泰寿先生が凄く評価して下さって、
『仕掛けどころの難しいドリームジャーニーに合うのでは……』と
騎乗依頼の声がかかりました」
09年、ドリームジャーニーを駆った池添は宝塚記念と有馬記念を制し、
池江の期待に応えた。
そして、その弟であるオルフェーヴルにも騎乗することとなった。
「ドリームジャーニーで宝塚記念を勝った年の夏の話です。
僕は毎年、夏には牧場にデュランダルを訪ねているので、
この年も行ったところ『ジャーニーの弟がいる』と言われたんです」
その時、みせてもらったのが1歳のオルフェーヴルだった。
「僕はジョッキーなので仔馬をみてもそれが良い体なのか、
将来走るのかは分かりませんでした。
ただ、ドリームジャーニーの全弟だったので
乗れたら良いな……とは思いました」
1年後、池江泰寿厩舎に入厩すると、その思いを正直、調教師に告げた。
その結果、当時、北海道に滞在していた池添は、
オルフェーヴルのデビュー戦のためにわざわざ新潟まで出向くことになった。
つまり、池添とオルフェーヴルの出会いは、決して僥倖というものではなかったのだ。
「結局、今でもオルフェーヴルの背中を知っているジョッキーは
僕だけですからね。
今、思うと僕にとっては大きな分岐点になりました」
新馬戦を勝ったもののレース直後には池添を振り落とした。
ゲートの中では啼き、ゲートが開くと引っ掛かった。連敗も大敗も経験した。
しかし、そういう経験を糧に成長し、成長させ、誰にも渡したくない背中を手にした。
ディープインパクト以来の三冠を制覇すると、
ナリタブライアン以来、3歳三冠直後の有馬記念をも制してみせたのだ。
(文中敬称略)