名手・アンカツの兄として親しまれ、その勝己騎手と同じく笠松からJRAに移籍した安藤光彰騎手が、先月(2月)に引退されました。
弟・勝己騎手と過ごした幼少期から、35年間の騎手生活、そして今後の目標についてお聞きました。

(取材日=2012年2月23日)

――
中学生の頃、厩舎から学校に通っていたそうですが、厩舎生活はどうでしたか?

楽しかったね。
勝己と一緒に寝泊まりしていたんだけど、
厩務員さんにかわいがってもらったよ。
正月の時なんて、酒を飲んで帰ってきた厩務員さんに、
「ミツ! カツ! ケーキ買ってきてやったぞ!」って
夜中に起こされてさ。
その頃の厩務員さんって勝ち気な人ばかりだったから、
殴り合いのケンカもよく見かけたな(笑)。

――
怖くはなかったですか?

その逆。
“この人たち、おもしろ~”って見ていた。
そんな環境の中で、俺たちは作られていったわけ。

――
勝己さんが大舞台で大胆な騎乗ができる理由がわかった気がしました(笑)。
勝己さんは、どのような少年だったんですか?

図太い神経の持ち主だったね。
頭も良かったし。
いつもおふくろが“勝己はIQが高い、IQが高い”って言っていたもんな。
「俺は?」って聞くと、何にも言わなかったけど(笑)。

――
その後、安藤兄弟は笠松でジョッキーとしてデビューするわけですが、
兄弟でリーディング争いをするって、どういう感覚なんでしょうか?

俺はいつも2番で結局リーディングを取れなくてね。
トップは勝己か川原だったな。
ただ、それほどリーディングにこだわっていなかったから、
悔しい気持ちはあるにあったんだけど、それほどでもなかったね。

――
笠松時代の勝己さんはどのようなジョッキーでしたか?

馬のことをよく知っていたよね。
勉強しているなという感じだった。
本当にいろいろな馬のクセを知っていたよ。
勝己が乗ったことのある馬で、
俺が乗って負けた時に「何で俺が乗ると負けるんだ?」って
聞きにいったこともあるくらいだから。

――
安藤さんと勝己さんは騎乗スタイルが似ているのでしょうか?

どっちかっていうと俺は“かかるぐらいの馬”が好きで、
勝己は“ズブい馬”が好きだったからね。
だから、競馬スタイルは正反対だったよね。

――
昔は中京競馬場で公営競馬が開催されていましたが、
その時の芝での経験は、中央で騎乗する時に役に立ったのではないですか?

それはないんじゃないかなぁ。
だって、馬の質も違うし、
地方の場合はダートを使ってきた馬が芝で走るわけだから、
とにかく流れが遅かったんだよ。
中央で初めて芝のレースに乗った時に、流れが全然違うなって。
どっちかというと、俺が一番勉強になったのは、
シンガポールに3カ月行ったときだね。

――
それはいつごろのことですか?

10年くらい前かな。
それまでは中央で乗ると、ゲートのタイミングが合わなくて、
よく出遅れていた。
何でかなぁと思っていたのが、
シンガポールで3カ月騎乗した時にわかったんだ。
地方競馬って、スターターの雰囲気で
何となくスタートを切るタイミングがわかるんだけど、
シンガポールでは周りの外国人が英語でわあわあ騒いでいるし、
ゲートに入れば、いつスタートを切られるかわからないから、
まっすぐにゲートだけを見るしかなかった。
だけど、そのおかげで気づいたんだよ。
地方は押して出していくんだけど、そうじゃなくて、
ゲートが開く瞬間に体重を前に出すと、スッと出られることにね。
それからかな、中央で乗っても出遅れなくなったのは。
おかげで勝ち星も増えたよ。

――
10年前というと、2002年でしょうか。
確かに、その翌年の2003年は7勝されていますね。

本当にいい経験をしたよ。
その後も期間限定騎乗騎手制度を利用して、
大井や船橋にも所属したりして各地で騎乗したけど、
シンガポールの経験があったから、
どこでもやれる自信はあったよね。

――
やはり、シンガポールはつらかったですか。

言葉がわからなかったからね。
普段の生活は通訳がいたから困らなかったけど、競馬の時は困った。
ゲートもそうだし、馬場に入ってからの指示とかもね。
だから、審議の対象になって公正室に呼ばれても、
何を言われてるかもわからないだろうから、
絶対に呼ばれないように、強引な競馬はしなかったよ(苦笑)。

――
それに比べたら、大井や船橋は精神的に楽だったと。

もう全然。しゃべれるからね(笑)。

――
そもそも、なぜシンガポールや大井、船橋で乗ろうと思ったのですか?

いろんなところで騎乗してみたかったからだね。
とくに大井や船橋は制度ができたことが、タイミング的に良かったよね。

――
中央でも美浦と栗東の両方に所属されていましたし、
これだけ各地の競馬場に所属された騎手はいないと思います。
場所によっての違いはありましたか?

中央だと、芝とダートで分かれているから違う部分もあるけど、
地方はどこも一緒だね。中央と地方の大きな違いは攻め馬の時かな。
地方は競馬場が調教コースだけど、
中央の場合はトレセンの中にいろいろな馬場があるから、
歩く距離が増えた(笑)。
シンガポールも地方と同じで、競馬場が調教コースなんだ。
最近は坂路もできたらしいよ。

――
美浦と栗東の違いはありますか?

調教コースは全然違うね。
とくに坂路は、美浦の場合は下(ウッドチップ)が軽い。
だから、美浦の坂路って、栗東に比べて時計が速いでしょ?
栗東で13秒から入ったら、終いはもうバタバタだもん。
ウッドコースもそうだけど、栗東のほうが重くて、負荷がかかりやすい。
チップが違うんだろうね。

――
そもそも安藤さんは、なぜ最初に美浦に所属して、あとから栗東に移籍したのですか?

最初に美浦を選んだのは、息子が大井で騎手をしていたからね。
本当は引退するまで美浦にいようと思ったんだけど…。
両親が岐阜に住んでいて、もう歳だし、
近くにいたほうがいいと思って、栗東に移ったんだ。

――
JRAの試験に合格したのは48歳の時ですよね。
しかも、1次試験の学科からですから、普通なかなかできないことだと思います。

自分で言うのはなんだけど、あの時は頑張ったね~。
本当に毎日勉強してたよ。
午前中に4時間、午後に4時間、合わせて8時間!
1度試験に落ちたから、それを2年間やったよね。

――
2年も勉強されて、辛くはなかったですか?

絶対に受かると思っていたから、しんどくはなかったよ。

――
どのような勉強をされていたのですか?

とにかく書く、ひたすら書く。書いて覚えるってことを繰り返した。
午前中に復習をして、午後に新しいことを勉強する、
そんな感じだったね。
子供のころから勉強をしたことがなかったから、
今思えばよくできたなと思う。
実はその前に、一度だけJRAの騎手試験を受けてみようと思って、
参考書を取り寄せたことがあるんだけど、
開いた瞬間に「無理!」と思って、
すぐに人にあげてしまったくらいだから(笑)。

――
本格的に試験を受けようと思ったきっかけは何だったのですか?

弟弟子の柴山(雄一)が受かったから(笑)。
“柴山が受かるんだったら、俺も受かるだろ!”ってね。

(第3回へ続く)

安藤光彰 特別インタビュー『アンミツの素顔』

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