ドバイ。

メイダン競馬場のスタンドに隣接する形で作られたホテルの一室で、
福永祐一はパソコンの画面を注視していた。
画面に映し出されていたのはドバイデューティーフリーと
アルクォーズスプリントに出走する各馬のレース。
指さしながら「この馬が何?」「いつもこういう競馬をするの?」
「この時のジョッキーは誰?」
と矢継ぎ早に質問が口をつく。

現地時間3月31日。
今年のドバイワールドCデーに参戦したユーイチは、
砂煙舞う中東の空の下、どんな思いを胸に日本馬の手綱をとったのか……。
彼と時間と空間を共有した日々を思い起こし、振り返ってみたい。

ユーイチがデビューして、もう17年になる。
私が彼と言葉を交わすようになったのはデビューした直後。
他のジョッキーの紹介で、食事を共にした。

当時から年齢の割には世慣れた感じの言葉を吐く子だった。
一つ間違えば生意気にもとれてしまうその発言は、
経験に劣る分、一考に価する着眼はあまりないように聞こえた。

76年12月、天才と謳われた福永洋一の長男として生を受けた。
少年時代はサッカーに熱中し、歴史が好きだった彼に、
騎手になるという選択肢はまるでなかった。

その思考が一転したのは中学2年の時だった。
実家の隣に住んでいた武豊が瞬く間にスターへの階段を駆け上がり、
競馬ブームを牽引する存在になった。

「今、騎手への道を歩まなければ後悔すると思った」
ユーイチは中学卒業と同時に、競馬学校を受験した。

一次試験を突破し、臨んだ二次試験。
足を骨折した身体で実技試験に挑み、当然のように落とされた。
当時を述懐し、ユーイチは言う。

「洋一の息子という甘えがあったと思います。
  こんな身体でも合格するんじゃないか?って思っていましたから……。
  もし、その通り受かっていたら、『あぁ、こんなもんなんだな』って感じで、
  今の自分はなかったと思います」

高校に1年通った後、翌年は気持ちを入れ替えて再度、競馬学校を受験。
合格した。

色々な意味で運命の振り子が少しでも狂っていれば
全く違った人生を歩んでいたことだろう。
勿論、今、目の前にある風景も違っていたはずだ。

しかし、競馬そのものに象徴されるように、
人生に於けるタラレバは妄想の域を脱さない。
ユーイチは優勝すれば百点、2着ではゼロ点の世界へと足を踏み入れたのだ。

そんなユーイチを、私が最初に海外へ誘ったのは99年のことだった。
ユーイチはこの年の4月、プリモディーネを駆って桜花賞を制していた。
これが自身初のGI制覇だった。
しかし、好事魔多し。
その翌週、返し馬で振り落とされた彼は、背中を踏まれ、腎臓摘出という重傷を負った。
肋骨も折れ、内蔵はボロボロ。
2カ月近い入院を余儀なくされた。

夏、そんな彼を海外に誘った。
退院後、リハビリに明け暮れていたユーイチは、首を縦に振った。
向かった先はフランス。
当時、かの地に長期滞在していたエルコンドルパサーを陣中見舞いし、
GI・サンクルー大賞典での勝利を生で観戦した。

競馬先進国での偉業達成に、称えられる蛯名正義の姿をみて、
「早く騎手として復帰したい」と感じた。
この訪問が縁で、イギリス・アスコット競馬場やフランスでも騎乗する機会を得た。

しかし、ユーイチの海外に対する想いは、決して熱を帯びることはなかった。

「言葉が駄目」

「外国人のノリが合わない」

当時はそんな理由にもならない理由を口にしていた。

ところが競馬の神様は彼の意思に耳を傾けることはなかった。
そんなユーイチに、次から次へと海外遠征への機会を与えたのだ。
そして、不思議とそのチャンスを彼はモノにした。

エイシンプレストンでは3度、香港を制した。
シーザリオでは日本人騎手による初めてのアメリカ競馬でのGI制覇を成し遂げた。
また、イギリスで行なわれるシャーガーCや
香港のインターナショナルジョッキーズチャンピオンシップなど、
世界中の優秀な騎手が、いや、
優秀な騎手だけが乗れるジョッキーイベントにも招待され、騎乗を果たしている。

(文中敬称略)


第2回へ続く

福永祐一、ドバイ遠征記 ~リーディングジョッキーが海の向こうで改めて経験したこと

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