函館競馬場だった。もう何年前になるだろう。
別件の取材を終えた私に、上村洋行が声をかけてきてくれた。

「取材はもう終わったんですか? 昼飯でも行きませんか?」

二人で上村の好物である蕎麦を食べた。

「遠征であちこち行く度に蕎麦を食べ歩いているんです」

笑いながらそう言った。
まだGIジョッキーになる前の話だった。
病を克服した後の話だった。

73年10月23日、滋賀県で生まれた。

92年に栗東・柳田次男厩舎から華々しい騎手デビューを果たした。

函館競馬場だった。
もう何年前になるだろう。
別件の取材を終えた私に、上村洋行が声をかけてきてくれた。

デビュー年に京王杯オータムハンデ(トシグリーン)を制覇。
この重賞勝ちを含む40勝を挙げると、2年目は更に飛躍。
53勝を記録。
3年目の94年には日本ダービーで2番人気のナムラコクオー(6着)の手綱を任された。

それほどの乗れる若手が突然、海外へ飛んだ。
アイルランドで10カ月、アメリカで2か月、計1年間、日本の競馬を離れたのだ。

「技術的にもっとうまくなりたいという一心で挑戦しました」

競馬にはほとんど乗れなかった。
それでも長期間、海の向こうで暮らしたのは、
「当時、誰もそのようなことをする人がいなかったから」
そして……。

「それなりに成績は残せている時期だったけど、
  それでもまだ何かを変えたいという気持ちを持っていたんです」

ここで感心すべきは、
“良績を残して尚、変わりたいと考えていること”、ではない。
その考えを、気持ちを、行動に移したことだ。

永遠に見つからない答えを求め続けなければならない
ジョッキーという商売を生業にする人間は、
誰もがそういう気持ちを持っている。
持っていなくてはいけない。
それは有体に言えば向上心であり、
それを持てないジョッキーは、鞭を置いてくれた方が
周囲の人のためであり、ファンのためでもあるのだ。
だから、現役のジョッキーなら、誰もがそういう気持ちを持っている。
持っているはずだ。

しかし、気持ちがあれば行動できるかというと、そんな簡単なものではない。
どの世界にも理想というアクセルに対し、現実というブレーキが存在するが、
もちろんジョッキーも同様だ。

「うまくなりたい」「環境を、自分を変えたい」と思っていても、
実際にそれを行動に移すのは難儀なことなのだ。

だからこそ、上村の思考ではなく、
その行動力は褒められてしかるべきなのである。

しかし、時として現実はより残酷だ。
1年間、日本を留守にした上村は、
以前ほどの騎乗馬を集めることが出来なくなった。
20勝前後の成績が続いた彼を、更なる試練が襲ったのは03年の暮れのことだった。

「目に映るものが全体的に白く、
  まるですりガラス越しに見ているような違和感を覚えました」

病院に行くと、飛蚊症と診断され、すぐに入院の措置がとられた。

その後、視力を回復するまでに4回に及ぶ手術を施された。
04年はほぼ1年間を棒に振って、治療に専念することになった。
いや、“1年間を棒に振って”というのは今だから言えること。
治るのか定かでない1年間は、本人の心にズシリと重い陰を落としたことだろう。

「いつ復帰できるか分からないというか、
  復帰できるかどうかも分からなかった。
  長くて不安な毎日でした」

04年秋には不屈の精神で蘇ったが、
それはまた別の不安が生まれた瞬間でもあった。

「復帰できた時は嬉しかったけど、
  これだけ長い期間、調教にも乗っていなかったわけですからね……。
  『競馬が出来るのか?』『ちゃんと乗れるのか?』
  という不安の方が大きかったですね」

しかし、“禍福は糾える縄の如し”である。
病で苦しんでも頑張る上村の姿をちゃんとみている人もいた。
その一人が、調教師の橋口弘次郎だった。

「復帰した後、乗せていただけるようになりました」

07年、その橋口に1頭の牝馬を託された。
500万条件で初めてコンビを組んだ同馬を勝たせると、
その後、彼女の主戦騎手となった。
その牝馬こそ、スリープレスナイトだった。

「目の病気をしていなかったら
  巡り遭うことのなかった馬かもしれません。
  橋口先生には感謝の言葉しかありません」

08年、同馬の手綱をとってスプリンターズSを優勝した。
これが上村洋行にとって騎手デビュー17年目にして、初めてのGI制覇となった。

「諦めずにやっていくことの大切さを感じました」

上村が言うからこそ、この言葉は命を持っている。生きている。
ある日、突然、視力を奪われるほどの病に侵されながら、
自暴自棄になることなく、見えない明日の光を探し続けた。
その先に、ついに手にした栄冠。
誰よりも上村自身がその重みを知ったことだろう。


そんな上村が鞭を置く決断をした。

「はっきり決めたのは
  昨(13)年の暮れの少し前あたりです」

この年、初めて調教師試験を受けた。
あまりの難しさに「二十何年も勉強をしてこなかった人間」(本人)が
容易に突破できる壁ではないと痛感した。

また、同じタイミングで池添兼雄厩舎に欠員が出たことも、
決断の後押しをした。

「先生にお願いしたら、すぐに承諾をしていただけました」

騎手を引退し、調教助手になることで、ピースがすんなりとハマる。
そして、それは自らが目指す調教師への近道でもあると思われた。

「もっと騎手として乗っていたい気持ちもあったけど、
  生半可な気持ちで受かる試験ではないと感じました。
  本腰を入れて取り組まないと、
  合格が先送りになるだけだと思ったんです。
  そんなふうに考えている時に、
  池添先生に助けていただけることになって……。
  今のこのタイミングしかないな……と思い、引退を決めました」

14年2月23日の京都競馬場。
最後の騎乗となったこの日、上村は2勝を挙げた。

「改めて人の温かみを感じました」

自らの騎手人生を“浮き沈みの激しい”それだったと評する。

「調子が良くなってくると怪我をしたり、
  病気になった」
と苦笑する。
しかし……。

「苦しくなった時は、必ず誰かが助けてくれました」

そう言って更に続ける。

「結局、色々な人に支えられてここまでやってこられたんです」

諦めずに頑張って挑戦し続ける男が間近にいれば、
それを助けたくなるのは人間心理として当然だろう。
つまり、上村が色々な人に支えられてきたのは、
彼自身によるところが大きいのである。

でも、だからといって甘えてはいけないし、
実際、甘えるような気は毛頭持っていないことだろう。
助けてくれた多くの人、支えてくれた沢山の人。
彼等に報いるため、彼等の期待に応えるためにも、
上村にとっての“これから”が大切なのだ。
騎手人生の23年は決して短いそれではなかっただろう。
しかし、これからまだ続く競馬人人生は、さらに長くなるはずなのだから……。

うえちん、ひとまずはお疲れ様。
そして、これからも今までと同じようにまだまだ期待させていただこう。

(文中敬称略)


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